雑草と花の区別って?それを決めたのはいったい誰なのさ?

こんにちはー
パン長です。

うちの花壇を今シーズンからちょいちょい僕色に染めてやれ、ということで
好きなようにいじらせてもらってます。

これは守り神のイグアナちゃん。

僕はマイ花壇のことをホビット庄と呼んでいる訳ですが
いい感じで魔法の庭的な雰囲気になってきたんじゃないかと。

最初はこんな感じで造園的なかんじで小道を作ったりしてね。


ガーデンアーチやタワーなんかも木とか竹とかで組み立てたりね。



ジャンクガーデンっぽくしてみたりね。

ここ数日でカワイイ花たちが咲いてきました。






ここに写ってる花はね、
実は自分で植えたものではありません。
勝手に生えてきて勝手に咲いてるものです。

つまり雑草です。

コリアンダーは何年か前に一度種を播いて、
それ以来落ちた種でほぼ毎年勝手に咲きます。

これら雑草は本来なら邪魔者扱いされる事が多いですよね。
でも、雑草とかそうじゃないとか、いったい誰が決めたの?
自分達の都合で分類しただけなのかな?って思うんです。
これは花に限らずね。

たとえば野菜だって。
もともとは山で自生していた食べられるイモや菜っ葉を
里に持ち込んで
より甘く、大きく、食べやすく、収穫量が多くなるように選別して株やタネを残し
そうやって固定種が生まれていったんですよね。

たとえば雑音と楽音。
楽器の音は澄んでいるものだって誰が決めたの?
主観の違いじゃないの?
美しいノイズもたくさんあるし
透明なだけで全然心に響かない楽音もあります。

区別しているのは全て人間ですよね
ぼくらがどう受け取るか
どう感じるか

こういう事が「清」と「濁」を分けているんじゃないかと思うわけです。

清濁を分けることは悪いことではありません。
実際、中医学では清濁の区別があってこその医学です。
体内での清濁、陰陽、正邪のバランスを整えるためには
「区別」して「ラベルを付けて」「判別する」事で
初めて症状を認識できます。
清濁という分類法を使っての病の状況判断です。

なので区別することが悪い事では無いと思うのですが
区別された分類が常識に成り代わった時に
「これはもともとこういうものだから」
という自分の思考とは別の設定が成長発育の過程で脳にすり込まれます。

これは時代、文化、習俗、宗教、哲学などのちがいによって
程度の違いはあれど無自覚に僕らが受け取っている感覚だと思うんですよね。

だから、ひょっとしたら「美しいかもしれないモノ」に意識を置くことなく
「これは雑草」というラベルを見ただけで
中身を見ようとせずに通り過ぎちゃうこともあるのかもしれないですね。

まぁ、だからどうなんだ?って話ですけどね(笑)
お花や植物達と接しているとそんなことを考えたりしちゃうよねー
っていう、まあ完全なる余談です♪

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