サイン帳って残酷でしたよ。

こんにちはー
パン長です。

こないだ、息子がサイン帳をもらってきましてね。
ああ、そういえばそういう風習ってあったよなーと思い出しました。

サイン帳ってしってます?
こういうやつです。

(某アイドルのサイトから拝借)

バインダーに1枚ずつ綴じるような感じになっていて
白紙のリフィルを友達とか好きな子とかに渡して
記入したもらったら返してもらって保管しておく、っていうシステムです。
大人になってからそのバインダーを見返すと当時の思い出が蘇るっていうそういう商品ですかね。

これって、友達が少ない子とか嫌われ者なんかの[em_st]少数派の人間にとっては残酷な通過儀礼[/em_st]ですよ。
僕なんて小学校の卒業の時に3人くらいからしか「サイン帳書いてー」って言われなかったですよ(実話
僕は小学校を転校転校で4つ行ってまして、幼馴染とか羨ましかったし
クラスのメインストリームのグループとか眩しかったです。

今は多数派に所属してようが、そうじゃなかろうが全然関係なくて「自分は自分」って思えてますけど、当時はそんな風には思えなかったんですよね。。。
休み時間にみんなドッジボールとかするじゃないですか?
あれね~、僕ね、[em_st]大嫌いだったんです。[/em_st]
もうね、超キライだったんですよ。


でも、ドッジボールしない子ってハミゴ(仲間はずれ)になるでしょ?
本当だったら休み時間は静かにノートに落書きがしていたかったんです。
で、今だったら自分のやりたいことを好きなようにやれるんですけど
当時の僕は友達が少ない状況ってのが不安だったんです。
だから、イヤイヤでもドッジボールに参加したりしてました。

なんか、集団生活って基本的には多数派に所属できるかどうかってのが
一つの分かれ道になりません?
たくさんの人の中でいろんな人と話すことや気を配ることを
全く苦痛と思わないタイプの人もいれば、
どうしてもソレが出来ない人もいます。

僕は上手に巻かれることが出来なかったように思います。

四柱推命によると、僕はもともとの資質としては
輪の中心で目立つ事を喜びとするタイプを持ち合わせているらしいので
いろんな人に囲まれてチヤホヤされたいんですよね。
でも、子供時代の僕はそういう境遇ではなかった。

落書きを書いてイマジネーションの世界を楽しむことが好きでした。
「そういうのが好きだ」って堂々と振る舞うことが出来ていたなら
類は友を呼ぶ、見たいな感じで共感共鳴する方達が集まってきたんだろうなって
今は思えます。
同好の仲間に囲まれて楽しく過ごせたんじゃないかと思うんですよ。

当時は今みたいに自分自身に自信を持つことが出来なかったので
こそこそと落書きをしていたような気がします。

[em_mk]認めてほしい、誉めてほしい[/em_mk]

そういう気持ちはあるんだけど、本当の自分を出す事が怖かったので
群れの中に入って自分を殺すことで仲間を作ろうとしてました。
「友達の数が少ないのは転校が多かったから。」
そんな風に言い訳をすることでやり過ごしていたように思います♪

今考えるとアホやなぁと思いますけどね。
「転校が多かった」という状況を言い訳に利用することによって
「自分を見せて堂々と振る舞う」事をしなくても済むように逃げていたんですよね。

自分にとって一見デメリットのある状態などをあえて選択する事で得ることができたメリット。
いわゆるセカンダリーゲインですね。
僕が本来向き合わなければいけなかった問題は
「自分をさらけ出すこと」ですした。
ソレをしなくても済むように、出来ない理由を引き寄せていたという事です。
あえて不都合なことを選択しているともいえますね。

理屈で考えると
「僕が問題から目をそらす為に親の転勤があった」なんてことはありえないかもしれません。
物質的な因果関係のロジックの世界ではそうなんですけど、
思考実験としてでも構わないんですが「あえて自分が選んで引き寄せていた」と考えることによって視座が変わります。
向き合うべき問題点にフォーカスポイントが近づきます。

自分自身が抱えている問題に向き合うのは辛かったり、思い出したくないこともいっぱいあると思います。
でも、その問題がなくならない限り「不都合な状況」がいつまでたっても引き寄せられてしまう、というケースも見聞きします。

僕は「自分を開示する」ことを自分に許してから
だいぶん生きやすくなりましたよ。

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